ティンカー・ハットフィールドがデザイナーに就任して以降、ナイキはジョーダンと綿密なコミュニケーションを図り、彼のアイデアを取り入れ、プレイスタイルや嗜好やルーツをデザインに反映するようになった。最新の技術によってジョーダンの感覚を注ぎ込むことで、他のどのバスケットボールシューズとも違う存在になっていく。ジョーダンが2回目の3ピートに向かって歩み始めた90年代半ばの雑誌のインタビューで、ティンカー・ハットフィールドは「彼(ジョーダン)はリーダーであるから、シューズに関しても誰もやってないことをやりたいというわけです」とは答えていた。歴代のエア
ジョーダンは常に先端で、無二の存在で、誰にも真似できないポジションだった。だからジョーダンは現役時代、他の選手がエアジョーダンを履くのを好まなかった。
エア ジョーダン IVは、初めてアッパーに高耐久素材、デュラバックを採用し、IIIで登場したミッドカットのバランスを磨き上げた。通気性を高めるメッシュやTPUパーツが画期的で、同時代のナイキ・デザインの模範にもなっている。今回復刻される通称「ファイヤーレッド」は、1989年のオールスター以降から1990年のオールスター前の間、主にシーズンゲームでマイケル・ジョーダンが着用したカラーだ。2012年の復刻との大きな違いはヒールのロゴで、当時はジャンプマンロゴだったが、今回はNIKEロゴが鎮座し、オリジナルを忠実に再現している。
エア ジョーダンの歴史は1984年から始まっている。シカゴ・ブルズに指名された偶然だけが、白と黒と赤の配色がコートを超えてストリートを象徴するカラーリングになったのは興味深く、ジョーダンの絶対的なカリスマを実感せざるをえない。ここではエア ジョーダンIから最初の引退を表明した1993年のエア ジョーダンVIIIまでを第一幕としよう。栄光に向かってステップを刻み続けたプレイヤーの軌跡と重ね合わせながら、偉大なるシューズの歴史を振り返りたい。
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AIR JORDAN I
1985
代理人デビッド・フォークの要求が生んだシグネチャーモデル
1984年6月19日、後にスターの称号を得るプレイヤー がこぞってエントリーした、近年まれに見る充実したNBAのドラフト会議で、シカゴ・ブルズがノースカロライナ大学のマイケル・ジョーダンを全体3位で指名した。この頃、ナイキは既にジョーダンとの契約を水面下で進めていたという。代理人のデビッド・フォーク [1] は、ナイキ担当のロブ・ストラッサーに選手契約に伴う見返りとして、シューズやウェアのブランドを作ることを要求していた。そこで生まれた名前が「エア・ジョーダン」だった。ナイキが掲げる戦略のプライオリティだったAIRテクノロジーとジョーダンが得意としていた空中のプレーを掛け合わせたネーミングだった。開幕に向けて特急で用意したエア ジョーダン 1はシカゴカラーを纏う黒 × 赤 [2] のカラーリング。デザインはエアシップ[3] と大きく変えず、同時期にリリースされたダンクのようにチームへの忠誠を配色で表現したが、NBAのユニフォーム規約に反したこ
とで着用毎に罰金の対象となった。禁止されてもなお黒 × 赤を発売させようとしたナイキは、その反骨精神とジョーダンの並外れた能力を宣伝材料にCMを作成し、目標額の40倍も売り上げて大ヒット。黒 × 赤は後に 「BAN(=禁止された)」のニックネームを授かり伝説へ。一方の日本では、体育や部活のシューズは白であるべきという凝り固まった先入観と規律を重んじる国民性が災いしてか、セールスは低調。ナイキジャパンも展開ラインナップの中から白ベースの配色を多く選んだものの、先進的な デザインへの理解が及ぶにはもう少し時間(実際は約5年)が必要だった。しかし販売店がワゴンセールで販売したことで、エア ジョーダンを履いて滑る海外のスケーターに憧れた日本のキッズが購入できるようになったこと。それでも在庫が残っていたこと。この2つの因果が後のヴィンテージブームを盛り上げ、ストリートカルチャーと結びつき、今に至るエアジョーダン人気を支えている。
[1] 選手に代わってチームやスポンサーと契約の交渉を行うスポーツエージェント。ジョーダンを筆頭に100人以上の有名選手を担当。
[2] 21世紀になると通称”ブレッド”の名でアイコン化。ジョーダンはレギュラーシーズン、白 × 黒 × 赤のカラーを履いてプレイした。
[3] エア ジョーダンIのベースとなったバスケットボールシューズ。1984年発売。開幕前にジョーダンが着用してプレイした。
AIR JORDAN II
1986
高級志向が作り出したスウッシュ排除のイタリアメイド
ルーキーシーズンから全試合出場、1試合平均 28.2得点、堂々たるルーキー・オブ・ザ・イヤー。マイケル・ジョーダンの鮮烈なデビューとナイキの優れたマーケティング戦略によって好セールスを記録したエア ジョーダン 1の成功から、ナイキは次に発売するシグネチャーモデルを特別な存在に位置付けようと画策し、高級路線へと舵をとったのがエア ジョーダン 2だった。エア ジョーダン1と同様にナイキのデザイナーはブルース・キルゴア [1] とピーター・ムーアが担当。前作では履き口のサイドに配された通称ウイングロゴをシュータンにシフト、ナイキの象徴であるスウッシュを排除。より”ジョーダンのための靴”であることを強調するデザインへとアップデートしている。そしてアメリカ中に期待された2年目のシーズン、マイ ケル・ジョーダンはわずか3試合目で怪我に遭い、シーズン早々に長期離脱を余儀なくされた。今までは軽さや薄さをシューズに求めていたジョーダンが、この時ばかりは
クッション性や足首のサポートを強く要求したという。このリクエストに答える形で生まれたのが、メイド・イン・イタリーだった。ヒールには蛇腹状のTPU パーツを使ってフィット感を、ミッドソールはポリウレタンの含有量 [2] を大幅に増やすことでクッション性を向上。しかしそれまでのシューズとは一線を画す発想は、それまでのナイキのバスケットシューズを生産していたアメリカや韓国の工場では実現不可だった。高級志向と新しいテクノロジーの開発、重なった2つのニーズを満たす唯一の選択が、メイド・イン・イタリーだったのだ。イタリア人のジョルジョ・フランシス [3] を専任のパタンナーに招聘し、完成されたエア ジョーダン 2は、ミニマルで流線的なカッティングが異彩を放っていた。そしてサイドの補強部にあしらったイグアナスキンは、19世紀の女性用ブーツがインスピレーションと言われているなど、まさにヨーロッパ的なルックスが特徴だった。
[1] エア フォース 1のデザインを担当。ナイキを代表するデザイナーの一人。
[2] ポリウレタンのミッドソールの開発により、前足部のクッション製もたかめることが可能になったが、加水分解が進行し、マニア泣かせのモデルとしても有名になった。
[3] オリジナルに付属した紙タグには、STYLED BYの肩書きとともに本人のサインが添えられた。デザイナーとの噂もあったが、正確には発注工場のパタンナーという説が濃厚。
AIR JORDAN III
1988
MJ残留を導いたティンカー・ハットフィールドのデザイン
これまでデザインを担当していたピーター・ムーアは、ナイキ退職に伴い新天地のブランドでマイケル・ジョーダンを引き抜こうと画策していた。デザインの後任に選ばれた のは、建築事務所を辞めてナイキに入社したティンカー・ハットフィールド[1]。オレゴン大学時代に元棒高跳びの選手でもあったティンカーは、飛ぶことに対しての強い関心と博識からマイケル・ジョーダンと意気投合。エア ジョーダン 3の高い完成度に魅せられたジョーダンは、ナイキとの契約を更新した。大袈裟に言うのではなく、ナ イキの運命の岐路に立たされたモデルだった。過去と違うものがまだ人を満足させる要素に満たなかった時代に、ア スリートのパフォーマンスの向上に心血を注いだティン カーは、革命的なシューズを次々と輩出してきた。エア ジョーダンが1とも2とも似つかないデザインに仕上がったのは、単なるデザイナー交代劇ではない。ティンカーはジョーダンとの密なコミュニケーションからデザインに反
映させる手法をとることで、選手の悩みを解決することを学んだ。これが「エア ジョーダン」が差別化された原点 となる。エア ジョーダン 3は初のミッドカット(3/4)タイプ。前作までの本革よりも柔らかいタンブルレザーで、履いてすぐに馴染むジョーダンのリクエストに応えた。そしてバスケットシューズでは初となる、エレファント・パターンをティップ&ヒールに採用した。そして「ジャンプマン」[2] マークを初めて用いたのも本作からだった。シカゴのダウンタウンの摩天楼をバックにダンクを決めるジョーダンのシルエットを象ったロゴがヒールに鎮座し、1と2とは違う視点で”ジョーダンのためのデザイン”を強調したのだった。本作のデビューは1988年の2月15日。NBAオールスターのスラムダンクコンテストで優勝した伝説の”レーンアップ[3]”で着用したのがこのモデルだった。1994年、2001年に復刻。以後様々なコラボレーションでストリートを盛り上げている。
[1] 1981年にナイキ入社、現在もナイキに在籍する伝説のデザイナー。エア ジョーダン15までデザイン担当を続けた。
[2] 1984年に撮影されたエア ジョーダン 1の広告写真のマイケル・ジョーダンのシルエットをロゴに採用。シカゴの摩天楼の背景が印象的
[3] フリースローラインからのダンクシュートのこと、この伝説的なダンクは右手だが、ジャンプマンロゴのジョーダンは左手でダンクしていた。
AIR JORDAN IV
1989
フライトの称号を授かった軽量化デザインは世界進出へ
1989 年にリリースされたエア ジョーダン IVは、さらな るハイテク化が進み、履き心地だけでなく、視覚的にも軽さを向上したモデルだった。ポジションによってプレイヤーの身長や体格がバスケットボールは、プレイスタイルに応じてシューズの役割を作る必要があった。ナイキは当時、パワーが必要な選手のために安定性に優れた「フォー ス」、スピードが必要な選手のために軽量性に優れた「フライト」の2つのラインを用意していた。ナイキはジョーダンの個性に合わせて、エア ジョーダン IV を「フライト」の枠に組み込もうとしたのである。シュータンのジャンプマンロゴに「Flight」が添え、ソールは同年に発売された エア フライト 89 [1]のユニットを搭載。アッパーとシュータンのメッシュは軽さと通気性を高め、TPUのアイレットは素早い動きに対応するレーシングシステムをアップデートした。この年、ジョーダンはNBAのキャリアハイを大幅に更新し、エア ジョーダン IVは初めてグローバル
展開に成功。つまりマイケル・ジョーダンとエア ジョー ダンの認知を世界中に浸透させることに貢献したモデルともいえる。そして、この頃のナイキは優れたマーケティングの会社としても頭角を表していた。前作からCM制作にスパイク・リー [2]を抜擢。彼は世界的にはまだ無名の映画監督だったが、黒人カルチャーの視点でエアジョーダンをクールなものと理解していた。1986年の公開映画 『シーズ・ガッタ・ハブ・イット』[3] で自ら演じた登場人物、マーズ・ブラックモンをジョーダンと共演させ、コミカルな会話劇でシリーズを注目させたのである。さらにこのエア ジョーダン IVを、自身が手掛けた『ドゥ・ザ・ラ イト・シング』(1989 年公開)の劇中に登場させた。ジャンカルロ・エスポジート扮する主人公が履いていたエア ジョーダン IVが、ラリー・バードのTシャツを着た白人に踏まれる瞬間のズームアップは、人種的不公平性を訴えるリー映画を象徴するシーンでもあった。
[1] 1989年発売のスピードプレーヤー向けのバスケットボールシューズ。多くのNBA選手が着用。小型の日本人プレーヤーにも人気を博した。
[2] ジョージア州アトランタ生まれの鬼才監督&プロデューサー。『マルコム X』や『インサイド・マン』など名作映画を多数手掛けている。
[3] スパイク・リー自らマイケル・ジョーダン狂の主人公、マーズ・ブラックモンを演じた初の商業映画。近年、セルフリメイク版がNetflixで公開。
AIR JORDAN V
1990
空前のバスケブーム前夜、いよいよ国内正規販売へ
1989-90 年シーズンのシカゴ・ブルズはプレーオフのカンファレンスファイナルで敗れたものの、シーズンの勝率は7割を超える圧巻の強さを見せつけていた。ジョーダン自身の活躍は、このシーズンに限ればスリーポイントの成功率が大幅に高まったのがトピック。インサイドもアウトサイドも無双状態で、誰もが認めるNBAのスターとしてリーグを華やかに彩った。世界各地でNBAの試合を放送する国が増える中、さらなる海外進出を目論見、NBAインター ナショナル・オフィスが設立。日本でもいよいよマイケルのプレイがテレビで気軽に見られるようになった。お披露目は1990年に開幕されたオールスターゲームで、ジョーダン本人が1stカラーの黒×シルバーを着用した。こういった節目的なお祭りイベントを盛り上げるナイキらしいマーケティング手法も注目されていく。時代の変化に合わせてストラテジーを変えても、ものづくりのヴィジョンをナイキは変えなかった。ジョーダンとティンカー・ハットフィー
ルドの親密なコミュニケーションを相変わらずデザインに反映させ、最新作はジョーダンの躍動感あふれるプレイスタイルを表現した。第二次世界大戦時代の戦闘機「P-5(1マ スタングファイヤープレーン)」をインスピレーションに、サメの歯のような模様をミッドソールに採用。アッパー側面のメッシュパネルはIVを踏襲しつつ、クリアラバーのアウトソールやクリア樹脂のシューレースストッパーな ど、軽やかで近未来的なエレメント[1]が注目された。それでも一番の話題は、ヒールサイドに背番号の23が刺繍[2]されたことだ。ナイキジャパンはエア ジョーダン Iの時期 尚早によるセールス失敗から、続編のII、III、IVの正規輸入を見送っていたが、空前のバスケットボールブームとジョーダン人気の高まりから、いよいよ発売を決行。多くのバスケットボール専門店でエア ジョーダン Vが並ぶことに。シーズン後にスタートした漫画『スラムダンク』で、流川楓 [3] が着用していたことも人気に拍車をかけた。
[1] ソールのクリアラバーは、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー II』の未来のシューズ用に開発された特殊なグリップ素材を流用した。
> [2] ティンカー・ハットフィールドのインタビュー記事によると、ジョーダンがナンバリングを切望していたとのこと。数字の影の有無が、マニア間で話題に。
[3]『スラムダンク』内に登場する主人公桜木花道のチームメイト。連載終了後に放送された企業CMではエア ジョーダン 12を着用。
AIR JORDAN VI
1991
ジョーダンの NBA 初制覇を飾ったミニマルデザイン
1990-91年はカンファレンス・ファイナルで3年連続雪辱を味わった天敵デトロイト・ピストンズ [1]を初めて下し、ファイナルではロサンゼルス・レイカーズを破って初のNBAチャンピオンに輝いた。そのメモリアルなシーズンに履いていたのが、エア ジョーダン VIだった。ジョーダンが求めた素足感覚をテーマに開発されており、それまでのデコラティブ志向から一転し、ソリッドなルックスが話題となった。その特徴を決定づけるのは、フィットを高めるネオプレン製[2] のインナースリーブとシューレースのカバーと広範囲に及ぶパンチングレザーの採用だった。ハイテク化は進むものの、アッパーのレイアウトはシンプルな一枚仕立て風。シルエットは有名なドイツのスポーツカー [3] をイメージしている。Vでお披露目された半透明のラバーソールは継続で採用されるも、III以降に使われたプラスチックパーツは姿を消し、ビジブルエアはこのモデルを最後に姿を隠すこととなった。ジョーダンのハイプ
マンとしてカルチャーを盛り上げたマーズ・ブラックモンのストーリーもVIで完結となったことから、本作は築き上げてきたエア ジョーダンのスタイルの集大成として位置付けられている。一連のコマーシャルが日本で放送されることはなかったが、米国ではスポーツと映画とカルチャーを融合させ、優れた相乗効果をもたらすマーケティングのロールモデルを作り上げた。ちなみに日本ではNBAシーズンの開幕戦が開催されるなど、バスケ人気は右肩上がりで、IVは好セールスを記録。それが高まりつつあるヴィンテージブームに拍車をかけることになった。前作のVの在庫を探すファンが増え、さらには日本で展開されなかった初期モデルも海外でバイイングする古着バ イヤーの対象物となり、新しい価値を持ち始めた。ファッション的視点で街履きする人はいなかったが、スニーカーカルチャーの発展に大きく貢献したのが、VIの特異的なポジションとも言える。
[1] バッドボーイズと呼ばれる荒くれ者集団でタフなディフェンスを得意としたチーム。後にジョーダンのチームメイトとなるデニス・ロッドマンも在籍していた。
[2] 1990 年代はクッショニングからフィットの時代へ。エアハラチで有名になった伸縮素材で、ジョーダンが求める素足感覚を叶えた。
[3] マイケル・ジョーダン本人が愛用していたという車をイメージ。ヒールのタブがリアスポイラーをモチーフにしている。
AIR JORDAN VII
1992
オリンピックモデルとバッグス・バニー起用の世界戦略
1991-92のオールスターゲームでマイケル・ジョーダンが着用してお披露目されたエア ジョーダン VII。本作のテーマはポップなルックスだった。ティンカー・ハットフィー ルドは、とあるアフリカのコンテンポラリー音楽のポス ターに描かれたエキサイティングな色柄をモチーフに据え、西アフリカ独特のセンスをシュータンやアウトソールに採用し、ジョーダンのリクエストに応えた。前作のミニマムなハイテクデザインの印象を損なうことなく、アフリカ系アメリカ人であるルーツをも表現している。ミッドソールはIII以降から覗かせていたエアユニットのウィンドウを大胆に排除し、異なる2素材のファイロン・ラップ 式で構成。さらに エアハラチ [1] を応用したインナーブーツをデザインし、フィット性をさらに向上させるなど、履き心地にイノベーションをもたらしている。そして新しいジョーダンの相棒役にワーナー・ブラザーズのバッグス・バニー [2]を起用。アニメと実写が融合し、モノクロで作
られていたマーズ・ブラックモン時代に比べて親しみやすいコマーシャルとなった。エア ジョーダンの過熱したブームは、これまでに数々の悲惨な事件を誘発していた。国民的マスコットとジョーダンの共演はナイキの健全性を訴求し、ダークサイドの払拭に貢献したといえる。そして1992年は、バルセロナで開催されたスポーツの祭典に世界中が沸いた年でもあった。前回大会までアマチュア選手のみで構成されていた男子バスケットボールアメリカ代表チームはNBA選手の参加が可能になり、マイケル・ジョーダンを筆頭とした”ドリームチーム [3]”を結成。ヒールタブに背番号9が刺繍され、USAのフラッグカラーで彩られた特別なエア ジョーダン VIIは瞬く間にプレミアの対象に。オリンピックの金メダルと2年連続のNBAタイトルを獲得したジョーダンは、世界的アイコンへ。ナイキはジョーダンをバスケットボールカテゴリから外し、独立したラインとして羽ばたかせた。
[1] 1991 年発売。メキシコに伝わる伝統的なサンダル、ワラチの構造を応用し、アスレチックシューズに転換したもの。素足感覚のフィットを実現
[2] アニメーション作品、ルーニー・テューンズに登場する架空のウサギのキャラクター。白い手袋をはめており、ニンジンと音楽が大好き。
[3] 1988 年のソウル五輪での屈辱的な敗北から、国際大会のプロ選手の参加資格を可決。マジック・ジョンソンの呼びかけでスターが揃った。
AIR JORDAN VIII
1993
90sのハイテク遺伝子を継ぐ、3ピート達成のアイコン。
バスケットボール人気は過熱し、競技人口だけでなく、趣味で楽しむファンが増加したことで、ゴールさえあればどこでも楽しめるストリートスタイルが隆盛した。そんな背 景を受けてナイキは1992年にアウトドア用のバスケットボールシューズ、エアレイド[1]をリリース。ティンカー・ハットフィールド自ら手掛け、エア ジョーダン VIIIはその特徴を取り入れた。足首のテーピングから着想を受けたというクロス・ブル・ストラップシステムを搭載。エア ジョーダン VIIから継承されたハラチのダイナミックフィット・インナーブーツとともに、当時では最高レベルのサポート性とフィット性を両立させている。そして常にデザイン変更が注目されるシュータンは、ジャンプマンロゴがシェニール糸で刺繍された。このモアディテールな発想の数々はシューズ全体にボリュームを与え、それまでのスタイリッシュな印象はなくなったのも事実。そしてエア ジョーダンを無二のポジションに位置付けたかったティン
カーは、NIKEロゴを意図的に外したと言われている。3カラーが登場し、2月のオールスターでは「アクア[2]」、以降の残りのシーズンは白を履き、プレイオフは黒を着用した。デザインに賛否両論の声が上がったものの、世の中に増え続けるバスケットボール好きの憧れの対象からエア ジョーダン VIIIが外れることはもちろんなかった。バッ グス・バニーとの共演も続き、盗まれたエア ジョーダン VIIIを火星まで奪い返しに行く、人気を象徴するようなビッグスケールなコマーシャルが放送された。この年、シカゴ・ブルズはNBA3連覇を成し遂げた史上3番目のチームとなり、マイケル・ジョーダンは3シーズン連続でMVPを受賞した初めてのプレイヤーとなった。7年連続得点王という偉業も達成したジョーダンは、同年の6月に引退を発表。一時的にコートを去ることとなり、ストーリーは一つの節目[3]を迎えた。
[1] ティンカー・ハットフィールドによる傑作の一つ。黒 × グレーの汚れの目立たないカラーリングと屈強なアウトソールがアウトドアに適していた。
[2] 黒ベースにブルーのグラフィックは、ユニフォーム規約のないオールスターのみ着用できたカラー。
[3] エア ジョーダン VIIIは本人がコートで着用した最後のモデルと言われた。その後、ジョーダンはメジャーリーグ行きを目指すことになる。